道なき道をまわりみち

まわり道の多い私の体験談。誰の得になるかもわかりませんが、勝手に書こうと思います。

わたしの好きな作家達 ①_詩人 茨木のり子さん

茨木のり子さんのどこがすごいって、真実を克明に伝えることばをもっているところだ。

この場合の「真実」とは、茨木さん自身「真実」である。人はそれぞれ、自身のフィルターを通して世界を見ている。これはわたしの考えだけれど、その人それぞれの「真実」が、人の数だけ、何千何百通りもあり、各々の「真実」がパズルの様に交錯しながら成り立っているのがこの世界だ。

自分自身の真実?自分の事なんてわかって当たり前じゃないか。一体どこが凄いのか?と思われるかもしれない。しかし、自分のことでも、本当はどう感じているのか?どう思ったのか?自分自身の「真実」が見えなくなってしまうことは往々にしてあると思う。ときに、周りの人の真実と、自分の真実を取り違えてしまい、そうこうしているうちに、自分が一体どう感じていたかわからなくなってしまうこともある。

「わたしが一番きれいだったとき」

このフレーズを読んだとき、わたしは下半身を吹っ飛ばされる位の衝撃を受けた。もちろん、この有名な詩は学校の教科書に載っていたので知っていた。その頃はさして印象にも残らず、反戦の詩なんだな、そう思った程度だった。しかし、20代後半で再びこの詩を目にしたとき、圧倒的な克明さで、茨木さんの「真実」が伝わり、わたしはしばらくその場を動けなかった。

「わたしが若かったとき」でもなく、「わたしの青春時代」でもなく、「わたしが一番きれいだったとき」なのだ。同じ女性として、心底痛ましく思った。女には一番きれいな時というのが存在する。それは過ぎてみて初めて分かるのだが、その短い時間は本当にキラキラしていて、生き物として一番輝いている時期なのだ。

そこにはかけがえのない時を失った悔しさ、残念さ、その時代を生きた茨木のり子さんでしか感じ得なかった「真実」がたった一行で如実に表されていた。このことばの裏に隠された幾多の感覚、感触が、時代が変わっても手に取るようにわかり、わたしは夢中になって茨木さんの文章を読んだ。

わたしも、まだまだ茨木さんの様にはいかないけれど、小さなことでも自分の「真実」を見失なわない様に、心の奥から大切に掘り出していこうと思う。

周りの声が大きくて、自分の「真実」がみえなくなり、ブレてしまいそうなときには、是非茨木のり子さんのこの詩を。

 

自分の感受性くらい   茨木のり子

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ